いまさら読書『坊っちゃん』
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こんにちは。めいです。
きょうは、いまさら読書をお送りします(`・ω・´)
いまさら読書が何か分からないという方は、第1回の記事を貼っておきますので、ご参照くださいm(_ _)m
may-work-autonomous.hatenablog.com
2回目のきょうは、『坊っちゃん』を取り上げます。
確かこの本、小学生のときに1回読んだ気がするのですが、内容を全然覚えていないので未読と同じだと思ってこれにしました。
実は、『吾輩は猫である』とどっちを読むか迷ったのですが、猫好きの私には、猫が死ぬ話はフィクションでも無理だと思ったので『坊っちゃん』にしました(^_^;)
あ、関係ない本の結末言っちゃった(;´Д`)スミマセン
気を取り直して、うろ覚え解説から始めていきます。
めいによるうろ覚え解説『坊っちゃん』
今回もやっぱりまとめて書けるほどちゃんと知らなかったので、箇条書きです(笑)
・作者は夏目漱石
・実体験が基になっていたはず
・主人公は教員だったはず
・「親ゆずりの無鉄砲で」で始まったはず
・無鉄砲過ぎてナイフで切って親指に傷跡があったはず
・マドンナ、赤シャツ、ヤマアラシ?あとナスビ?
・赤シャツが嫌なやつだったはず
作者名以外清々しいほど不確定ですね(´・ω・`)でも、こういう本を読むためのコーナーですのでね。ご容赦ください(^_^;)
感想
正確なあらすじ
正義感が強く正直な主人公「坊っちゃん」は、故郷の東京に下女の「清」を残し、四国松山の中学校に数学教師として赴任する。待っていたのは生意気な生徒たちと、事なかれ主義な教師たち、そして、ずる賢く嫌味な教頭「赤シャツ」と、その腰巾着「野だいこ」だった。「坊っちゃん」と同じく曲がったことが嫌いな「ヤマアラシ」と共に、同僚「うらなり」の婚約者「マドンナ」を奪った「赤シャツ」をこらしめようとするが・・・。
やっぱり、ちゃんと読むとちゃんとしますね。当たり前か。
そして、ナスビではなく「うらなり」でした。恐らく作品中に「唐茄子のうらなり」という記述が出てくるので、昔読んだときにそれとナスとがごっちゃになったのだと思います(-_-;)
ちなみに、唐茄子はかぼちゃだそうです。ナスですらない(´・ω・`)まじでちゃんと読んでよかった恥ずかしい・・・。
関係ないけど気になったこと:本の値段ってどうやって決まるの?
最初に「坊っちゃん」を手にとって驚いたのが値段です。
310円+税ですよ?安すぎない?
びっくりしたので、本の値段がどうやって決まるものなのか調べてみました。詳しく解説してくれているサイトを見つけたので貼っておきます。
すんごいざっくりまとめると「原価率から逆算する」って感じなのですね。普通にものの価格を決める方法で決めてるんだなって感じでした(笑)
ただ、ちょっと気になったのは、印税です。印税は作者に著作権料として払うものだから、著者が亡くなって著作権が消滅したら払う必要なくなりますよね?てことは、「もし作者が亡くなったら本の値段は下がるのかしら?」と疑問に思いました。「坊っちゃん」はそれで安いのか?と思って調べてみたのですが、そこまでは分かりませんでした(´・ω・`)
でも、作者が亡くなった場合、相続人がいれば著作権は相続されるということは分かりました。もし推し作家が亡くなっても、作品を買うことで推し作家の子孫を養えるのかと思ったらちょっと胸が熱くなりました(*゚∀゚)
感想①「親ゆずり」の親は父親か母親か
「親ゆずりの無鉄砲で」は、「吾輩は猫である。名前はまだない」と同じくらい有名な書き出しですよね。よく知っている書き出しですが、しっかり物語を読んでみると、不思議な書き出しだと思うようになりました。
坊っちゃんの父親と母親は最初のほうにしか出てこないのですが、どちらも無鉄砲そうな描写はありません。坊っちゃんの行動に辟易し、坊ちゃんを疎んじている様子が伺えますが、特別無鉄砲そうな感じはしません。親ゆずりとは、「親から受け継いだ」という意味だと思っていたので読んでいて「どっちでもなくない?」と思い、変な感じがしました。
私なりに考えてみて、もしかしたらこの「親ゆずり」は、「親のせいで」とか「親の愛情不足で」ということをめちゃくちゃ皮肉って言っているのかな?と思うようになりました。
そう思うぐらい、両親の坊っちゃんへの態度は冷たいと感じました( ´ㅁ` ;)母親は叱るばかり、父親は無関心という感じで、読んでいてかわいそうに思いました(´・ω・`)
そのような関係性を読み取ると、坊っちゃんの無鉄砲さも違うものに見えてきました。確かに無鉄砲でもあるのですが、私には意地を張っているようにも強がっているようにも見えました。子どもの頃は特に、何か言われたりされたりしたら考える間もなく言い返したりやり返したりともはや反射のようで、結果として母親か父親にひどく叱られるのですが、そういうやり方ぐらいでしか両親と関わる方法がなかったのではないかと思いました。ただの無鉄砲と言うより、ものすごく不器用で素直でない関わり方しかできない人だったのだなと思いました。結果的には親からも良い関わり方はしてもらえておらず、心底不憫な幼少期だと思いました(´・ω・`)
感想②清の存在の尊さに気付いてよかった
両親と対照的な存在として描かれているのが、女中の「清」です。坊っちゃんは親からもあまり愛情を与えてもらえず、就職してからも理不尽な扱いばかり受けていて、読んでいてずっと「どうか報われてくれ( ;´꒳`;)」と思わずにはいられませんでした。
そんな物語の中で、清は唯一の救いのように感じられました。
最初、坊っちゃんは清のことを結構ディスっています(^ω^;)「教育を受けていないからしょうがない」みたいなことを言っていて、「あんなに特別扱いしてもらってるのにちょっと言い過ぎだろヽ(`Д´)ノ」と私が勝手に腹を立てていました(笑)
でも「なんで自分をこんなに持ち上げるのか分からない」という坊っちゃんの感覚の裏には、自信のなさがあったのかもしれません。あんなに怒らてばかりでは、どれだけ強がっていても自信はなくなってしまうよな、と今は思っています。そんな坊っちゃんに気づいていたかは分かりませんが、盲目的なぐらいひたすら愛情を注いでいた清は本当に尊いなと思いました。
清と離れて働く中で、坊っちゃんもだんだんと清の素晴らしさに気付くことができていたので、そこは本当によかったなと思いました。
感想③大人になって分かる坊っちゃんの可愛らしさ
遠い昔、小学生の頃に『坊っちゃん』を読んだとき、私は坊ちゃんのことを「自分勝手でムカつくやつだ」と思っていました。ストーリーは全然覚えていなかったのですが、この印象だけはかなりはっきり覚えていました。
当時なぜそんなふうに感じたのかを考えてみると、坊っちゃんが集団の中でうまくやろうとする努力をあんまりしていなかったからだと思います。
小学生の頃の私は、学校では「集団の中でうまくやれること」が良いことだと思っていました。輪を乱さない、浮かない、空気を読む。問題を起こさないようにすることは、学校生活を無事に過ごすのに不可欠なことでした。だから、空気を読まずに校長に思ったことをそのまま言ったり、赤シャツに釣りに誘われたのに、釣りをせずに寝そべったりと失礼なことをする坊っちゃんが「ムカつく」と思ったのだと思います。
また一方で、小学生の私は坊っちゃんがうらやましかったのだとも思いました。学校生活を乗り切るには、好きなことや興味のあることでなくても何となく話を合わせたり、なんか合わないと思っても、誰かと行動したりしないといけませんでした。私は、本当はそれがすごく苦手でした。それでも適応しようと無理して頑張っていた私には、自由で率直に見える坊っちゃんがうらやましく、妬ましく思えてムカついたのだ気づきました。
小学生の頃はそんなふうに思っていたのですが、今回改めて読んでみて、今の私は坊っちゃんのことを「可愛い」と思いました。
『坊っちゃん』は主人公の一人称で語られるので、言うなればほぼ「坊っちゃんの頭の中」で構成されています。坊っちゃんは、いろいろな人や出来事をボロクソに言っているのですが、実は、それは大体「坊っちゃんの頭の中」だけで言われていて、言葉として相手に発せられていることは少ないのです。
しかも、坊っちゃんは、大事な場面ほど自分の言いたいことが言えません。職員会議でもちゃんとしゃべれませんし、赤シャツにも論破されて言い返せませんでした。
真っ直ぐな思いがあるのに、口下手でそれが伝わらず、損ばかりする。こんな坊っちゃんの姿を想像して、何だかとても愛おしいなと思いました。また、もしかしたらこれが清の気持ちか!?とも思って、そりゃあ可愛がりたくなるわ、と思いました(笑)
感想④正義ってなんだろう?
正直、赤シャツと野だいこはもっとがっつりこらしめて欲しかったと思いました。殴って卵を投げつけてという、暴力的な制裁もちょっと嫌だなと思いました(´・ω・`)
うらなりも辞令を受け入れて去ってしまいましたし、坊っちゃんもヤマアラシも辞めてしまったのに、恐らく赤シャツと野だいこはそのまま学校に残っていて、スカッとはしない結末でした。妙に現実的だとも思いました。
あの当時の技術ではとても無理なのですが、もっと明確な証拠を集めてさらして、社会的な制裁を受けてほしいと思いました(^ω^;)
こんなふうに思ったと同時に「この気持ちって、最近の不倫した芸能人に対する気持ちと似てない?」と思ってドキッとしました。
赤シャツとのことも芸能人の浮気も、自分は当事者でもないのに腹が立って、「謝れ」とか「何かしらバチが当たってほしい」という気持ちになっていたことに気づきました。
なんで当事者でもないのにこんな気持ちになるのか考えてみたのですが、多分、自分の道徳観に合わないことに直面させられているからかなと思いました。自分の道徳に照らして悪いことだと感じるから、自分のことでなくても腹が立つのかなと思います。
でも、だからといって私が「謝れ」「報いを受けろ」と思うのは正義なのかな?と思いました。何がいいとか悪いとか、とやかく言える立場ではないなと思いましたし、そもそも、当事者ですらありませんしね(^_^;)よく考えればそうなのですが、そんなことを考えるより先に心が動くぐらい、自分の道徳観が脅かされることは大変なことなのだなと思いました。だからこそ、自分が当事者でないことの評価には冷静にならなければいけないなと思いました。
坊っちゃんは結局、自分のことを一番大切に思ってくれていた清のもとに帰り、幸せになれたようでした。自分の道徳観に照らしてどうかということよりも、当事者が幸せなのかどうかということが一番大切なのかもしれないなと思いました。
おわりに
きょうは、いまさら読書として「坊っちゃん」を読んだ感想をお送りしました。
昔読んだけどストーリーを忘れてしまった本を読むのも気付くことがあってなかなか良いと思いました。今後はそういう本も積極的に読んでいこうと思います。
とりあえず、集団に馴染もうとしていた私も、楽に生きる方法を見つけた私も、どちらも「頑張ったね」と褒めてあげたいです(●´ω`●)
多分これからも月1ぐらいでやっていくと思うので、よければ読みにきてください!よろしくお願いいたしますm(_ _)m
きょうはこれでおしまいです。
また来てくださいね!