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いまさら読書『伊豆の踊子』

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こんにちは。めいです。

 

きょうは、いまさら読書更新です( ・`ω・´)

いまさら読書がどういうコーナーかに関する説明は、第1回目のこちらの記事をお読みくださいm(_ _)m

 

may-work-autonomous.hatenablog.com

 

きょう取り上げるのは、川端康成伊豆の踊子です。

 

 目次

 

めいによるうろ覚え解説『伊豆の踊子

・作者は川端康成

・舞台は伊豆

・…特急?

 もうなんか、まじで書く意味あるのかなこの解説(´・ω・`)

まあでも、書くことあるときもあるし。

題名だけ知ってるけど中身よく分かってない本を読むコーナーだからね。しょうがない(;´∀`)

今回もめげずに読んでみました( ・`ω・´)

 

ちなみに、今回は特に疑問に思ったことはなかったので、特急「踊り子」号に関するページを貼っておこうと思います。

 

特急「踊り子」号(リニューアル車)|JRで行く、伊豆の旅行|JR東日本 伊豆・箱根・湯河原

 

主人公は旧制の第一高等学校(今の東大)から伊豆へ旅していますので、東京と伊豆をつなぐ特急の名前としては、かなりおしゃれでぴったりだなと思いました(●´ω`●)

ちなみに、全席グリーン車サフィール踊り子というものが存在するらしいです(; ・`ω・´)

 

www.jreast.co.jp

 

知らなんだ(´・ω・`)

優雅な旅をご所望の方は利用してみてはいかがでしょう(*´ω`*)

 

ちょっと話がそれました。

気を取り直して感想です( ・`ω・´)

 

感想

正確なあらすじ

主人公の「私」は、孤児であるという生い立ちからくる自己嫌悪と憂鬱に悩み、伊豆へと旅をする。

その途中で出会った旅芸人たちと下田までの道を共にする中で、「私」は幼く純真な踊り子「薫」に心惹かれていく。

偶然出会った人々からの無垢な好意に触れるうち、「私」の心は少しずつ解きほぐされていく。

 

自身も孤児であった川端康成が、伊豆へ旅した際の実体験を基にして書いた短編小説となっています(●´ω`●)

 

妄想力が試される名作

伊豆の踊子』を読んでの私の感想は、この一言に尽きます。

この作品では、主人公の「私」の背景情報はほとんど語られません。

なので、めちゃくちゃ妄想しないと、主人公がどんな人なのかが見えてきません。

ということは、踊り子たちとの関わりの中でなんであんなに主人公の心が温まっていくのか、めちゃくちゃ妄想しないと分からないんですよ(; ・`ω・´)

作品自体は45ページと非常に短く、1日で読めてしまいます。

簡単に読めてしまうのに、読んだ後に妄想する時間が読むのにかかった時間の何倍にもなるという不思議な楽しみ方が必要な本でした(;´∀`)

45ページしかないのに世界中で読まれている秘訣はこれか?と思いました(*´ω`*)

私は、この作品を自分なりに理解するポイントは、「私とはどんな人なのか」ということと「孤児根性とはどんなものなのか」ということかなと思ったので、それぞれについて妄想してみることにしました( ・`ω・´)

妄想の材料としては、作品から私が読み取ったことと、作者である川端康成自身の情報を使いました。

作者の実体験を基にしているし、作者自身も孤児であったとのことなので、その辺りも影響していそうだなと思たので、川端さんの情報も併せて妄想してみることにしました。

 

めいが妄想した「私」

 「私」についての最初の印象は、「この人、死にたい(´・ω・`)?」でした。

なぜそんなふうに思ったかというと、事あるごとに他人にお金を渡していたからです。

踊り子の一行に追いついた茶屋では、店主のおばあさんが驚くほどの金額を渡していました。

物語の中で「私」は20歳の学生ですから、そんなに裕福ではないと思います。

そんな人が惜しみもせずに、あまりよく知らない人たちにお金を渡す描写が何回かあり、ちょっと不自然に思って気になりました。

なぜそんなことをするのかと考えたときに、私は、「この人、死にたい?」と思ったのです。

持っているお金をせめて自分をもてなしてくれた人、自分に優しくしてくれた人に全部渡してしまおうと思っていたのかなと妄想しました。

川端康成自身が自殺しているというイメージにもだいぶ引っ張られていると思いますが、「私」のお金を渡す行為が身辺整理のように思えました。

 

あるいは、 愛情の示し方が分からない人なのかなとも思いました。

「私」が誰かにお金を渡すシーンは、相手を気遣っているシーンでもありました。

茶屋で病気のおじいさんを気遣ったり、旅芸人の一行に「柿でも食べたら」と言ったりして、「私」はお金を渡します。

恐らく、「私」が相手を気遣う心や優しさは、お金など渡さなくても通じていたと思います。

それでも、「私」は気持ちと一緒にお金を渡さずにいられません。

実体がないと、自分の気持ちという目に見えないものを相手に感じてもらえない、受け取ってもらえないという感覚があったのかなと思いました。

 

めいが妄想した「孤児根性」

 気持ちにお金という実体を添えないと人に渡せなかったのだとしたら、「私」はきっと、人から受ける愛情にも不確かさを感じていたのではないかなと思います。

 孤児であった「私」にとって、愛は不確かで、条件付きのものだったのではないかと思いました。

きっと誰かに預けられて育ったはずですから、預けられた先の養父母からの愛情は、何か自分が悪いことをしたら失われるような条件付きのものと思っていたかもしれません。簡単に捨てられるというような思いもあったのかもしれません。

川端自身、10歳までに近親者をほとんど亡くし、親戚に引き取られています。

川端は別の作品で、最後の近親者だった祖父の葬儀の際、周囲の人から向けられる同情の中に、ただの同情だけでなく、「(孤児になった川端が)これからどうなるだろうという好奇心」を感じたと書いています。

純粋な愛を向けてもらえなかった経験が「私」にも投影されているのではないかと思います。

 受ける愛が不確かであれば、自分から相手へと向ける愛情も不確かに思えてしまうのは当然だろうなと思いました。

 相手から向けられた愛情と、自分から相手に向けた愛情を疑いながらも、何か間違えば捨てられてしまうかもしれないと恐れて人の顔色を伺って、嫌われまいとしている。

そんな矛盾した自分の心「孤児根性」と表現したのかなと思います。

 

「私」にとっての踊子たちとの旅の意味

 踊子たちとの旅の中で、自然体の自分に対して、純粋で無垢な、疑う必要のない好意を示してもらえました。

また、「私」は、踊子が言っていた「いい人」という言葉を素直に受け入れることができるようになりました。

 「私」は踊子たちに、嫌われまいという努力をしない自然な自分の姿を受けれいてもらうことができました。

これは、自分から相手に向けた自然な愛情を受け入れてもらえたと同時に、嫌われまいなどと考えない自然な自分も愛してもらえたということです。

また、自分自身でも「いい人」と言われて愛される自分を肯定することができたのだと思います。

 45ページという短い文章の中に、さらりとした文体でまとめられているこの旅は、「私」を根本から生まれ変わらせる旅だったのだと思いました。

 

おわりに

きょうは、いまさら読書として川端康成の『伊豆の踊子』をお送りしました。

さらっと読めるのにいつまでも妄想して楽しめる。そんな面白い本でした( ・`ω・´)

気になった方はぜひ、読んでみてください(●´ω`●)

 

きょうはこれでおしまいです。

また来てくださいね!